木留山

ollama + open-webui + gemma3:27b

山県有朋が遺した和歌や漢詩についてどう思いますか。

山県有朋は、明治時代を代表する政治家、軍人として知られていますが、実は和歌や漢詩にも造詣が深く、多くの作品を残しています。彼の和歌や漢詩については、以下のような点が評価できます。

和歌について

  • 格式を重んじる古典的な趣: 山県の和歌は、新古今調を基調とし、典雅で格調高いものが多く見られます。明治維新という激動の時代にあっても、古典的な歌風を守り続けた姿勢は、保守的な気質を反映しているとも言えます。
  • 自然や歴史を題材とした深み: 彼の和歌には、自然の美しさや歴史上の出来事を題材としたものが多く、深い情感や思索が込められています。特に、故郷の風景や自身の経験を詠んだ歌は、彼の人間性を垣間見ることができます。
  • 漢詩の影響: 漢詩に親しんでいた山県は、和歌にも漢詩的な要素を取り入れています。これは、彼の教養の深さを示すとともに、和歌に新たな表現の可能性をもたらしたと言えるでしょう。

漢詩について

  • 優れた漢詩の素養: 山県は、漢詩の才能にも恵まれ、多くの漢詩を残しています。その漢詩は、古典に則りつつも、洗練された技巧と独特の趣を兼ね備えています。
  • 政治思想や人生観の反映: 漢詩には、彼の政治思想や人生観が色濃く反映されています。例えば、国を憂う気持ちや、武士としての信念を詠んだ漢詩は、彼の内面を深く理解する上で貴重な資料となります。
  • 国際的な視野: 山県は、遣欧使節団の一員として欧米を視察しましたが、その経験から得た国際的な視野も漢詩に表れています。西洋の文化や思想を取り入れ、新たな価値観を創造しようとする姿勢は、彼の進歩的な一面を示しています。

総評

山県の和歌や漢詩は、単なる趣味の域を超え、彼の教養、思想、人間性を表現する重要な手段であったと言えます。彼の作品は、明治時代の知識人の精神世界を知る上で貴重な資料であり、文学史においても一定の評価を受けるべきでしょう。

ただし、彼の作品は、現代の読者にとっては、やや難解に感じられるかもしれません。そのため、古典文学や漢詩に関する知識があると、より深く理解することができます。

もし具体的な歌や漢詩について知りたい場合は、作品名を教えていただければ、詳細な解説を試みます。

木留山の歌などはどうでしょうか。

山県有朋の「木留山(きどめやま)の歌」ですね。これは彼の和歌の中でも特に有名で、多くの人に親しまれている作品です。

木留山(きどめやま)の歌

木留山 ふるさとの山よ 仰ぎ見る 雲間に光る 故郷(ふるさと)の空

この歌は、山県の故郷である木留山(現在の群馬県高崎市)を仰ぎ見て、故郷を懐かしむ気持ちを詠んだものです。以下に、この歌のポイントを解説します。

  • 簡潔で力強い表現: 歌はわずか1句で構成されていますが、その言葉選びは簡潔でありながら力強く、故郷への深い愛情が伝わってきます。
  • 「仰ぎ見る」という視線: 木留山を「仰ぎ見る」という視線は、故郷への憧憬と敬意を表しています。遠くから故郷を見上げることで、より一層故郷を大切に思う気持ちが強調されています。
  • 「雲間に光る」という美しさ: 木留山が雲間に光る様子は、幻想的で美しい情景を描き出しています。これは、故郷の風景が山県にとって特別な存在であることを示唆しています。
  • 故郷へのノスタルジー: 「故郷の空」という言葉は、故郷に対するノスタルジー(郷愁)を強く感じさせます。山県が故郷を離れて長い年月を過ごしたことを考えると、この歌には、故郷への強い思いが込められていると言えるでしょう。

この歌の評価

この歌は、山県の和歌の中でも代表作の一つとして知られています。その理由は、以下の点が挙げられます。

  • 普遍的なテーマ: 故郷を懐かしむ気持ちは、誰にでも共感できる普遍的なテーマです。そのため、この歌は時代を超えて多くの人々に愛され続けています。
  • 美しい自然描写: 木留山の美しい風景が、歌の中に生き生きと描かれています。自然の美しさを通して、故郷への愛情がより深く表現されています。
  • 山県の人間性: この歌は、山県の人間性を象徴する作品と言えるでしょう。故郷を大切に思う気持ちや、自然を愛する心は、彼の生い立ちや性格を反映しています。

まとめ

「木留山(きどめやま)の歌」は、山県有朋の故郷への愛情と美しい自然描写が込められた名歌です。この歌を通して、彼の人間性や時代背景を理解することができます。

やれやれ。

ときどき ollama がうんともすんとも反応しなくなることがある。その場合は

docker start open-webui

ってやれば治ることが判明した。

この ollama + open-webui というやつは極めて不安定でときどき再起動してやらなくてはならない。

gemma3 も単にドイツ語を日本語に訳すなどという仕事ならばある程度までそつなくこなせるのだが、山県有朋の和歌などを解説させるとまったくダメだ。同じことは gpt-oss:120b にも言える。正直言ってまったくつかいものにならない。

Dell Pro Max with GB10

大学生協で Nvidia DGX Spark が台数限定で売られていて年度末で予算が余っていたので買おうとしたら売り来てて店長さんに代わりに OEM 互換の Dell Pro Max with GB10 を紹介され、それを購入した。699,900円。

セットアップしようとしたら本体に USB-C 端子しかなく詰んだが、いろいろ探してみるとUSB-C -A アダプタなどがバラバラ出てきたのでキーボード、マウス、USBメモリなどをつなげられるようになり、先に進んだ。

なにかのはずみで GUIログインができなくなったので、OS再インストールしようかと思ってここからしばらくハマった。

めんどくさいので途中経過は省略するが「NVIDIA DGX Spark 公式」の方法によるシステムリカバリーというところに書かれている通りにやったらなんとか再インストールできた。なぜかはわからんが、windows で powershell のスクリプトでリカバリーイメージをUSBメモリに流し込まなくては boot option で usb なんちゃら partition 1 という選択肢が出てこない。この選択肢が出さえすれば OKらしく、welcome メッセージが出て、あとはすんなり進んだ。それ以外の dgx os installation などというそれっぽい選択肢を選んでもすべて CUI インストーラーしか立ち上がらず、途中でエラーが出て失敗する。

CreateUSBKey.cmd というスクリプトもそのままではなぜか動かず、中に書いてあるコマンドを直打ちして実行したら動いた。すべてがグダグダだった。

最初は rufus で isoモードで書き込んだのがいかんのだろうと思ったが dd モードで書き込んでもだめ。Dellのサイトにかかれているとおりに ubuntu で dd でイメージを流し込んだりいろいろ試したがすべてだめだった。

wifi ルーターかなにかで windows のノートPC と LAN 共有し、Nvidia Sync でつないで使うというやり方しか今ところ想定されていないような気がする。

MSI や Dell などが OEM で提供しているようだが、とにかく情報が少なすぎて、ユーザーも少なすぎて、今慌てて手を出すのはかなり地雷な気がするが、まあ私はなんとかなったのでもういいやって思ってる。

それでこれからなんだけど、まったく右も左もわからないので、LM Studio 入れようかと思ったら arm64 では動かないらしく、Docker 環境で ollama + Open Web UI で使うのがどうも標準らしいんだが、Docker のありがたみもよくわからんので、とりあえず ollama 入れて、gpt-oss:120b をコマンドラインでガリガリ使ってみようと思っている。いろんな流儀がありすぎてもうわけわからん。いろいろ教えこんで授業の AI アシスタント代わりに使えると良いのだが、たぶんそこまで行くのはずっと先だと思う。

めちゃめちゃ小さくて軽いので、家に持ち帰っていじろうかという気でいたのだが、今のところその気は失せた。すぐにどうこうなるというものではないし、家では家ですることがあるから大学に置きっぱなしにして、とりあえず学生とかに使わせるのでなく、自分だけでいろいろいじってみる。

有線LANでつないで固定IPアドレスで使えるともう少しやりようがあるんだけど、なぜかうまくいかない(イーサーのケーブル挿しても反応しない。多分OS初期設定の時に有線LANをつなぎっぱなしにしなきゃいけないんだが、学内ネットワークのproxy設定しないと外につながらなくてそこで詰む。ubuntu のインストールと同じ。仕方なく wifiルーターで無線LANにつないで初期設定すると有線は使えなくなる。有線か無線が排他的にしか使えない設定ではなかろうか。普通のubuntuだとあとから有線固定IP接続すれば使えるんだがなー)。無線LANで学内ネットワークにつないで ProxyPass で ubuntu の apache から見えるようにすることもできるんだけど、まずはスタンドアローンで使ってみるかなーって感じ。

ともかく現状、ネットで調べようとしても情報がまったく出てこないので、のんびりやるしかない。

token limit

gemini3に質問。

あなたには token limit というものがありますか。

はい、私にも**トークン制限(Token Limit)**は存在します。

AIが一度に扱える情報の量には限りがあり、それを「トークン」という単位で管理しています。大きく分けて**「入力(読み取り)」「出力(書き出し)」**の2つの制限があります。


1. コンテキストウィンドウ(入力制限)

コンテキストウィンドウとは、私が一度に理解・記憶できる情報の範囲のことです。

  • 最大容量: 私のベースとなっている Gemini 3 Flash モデルは、最大で 100万トークン という非常に大きなコンテキストウィンドウを持っています。これは、本に換算すると約1,500ページ分、コードなら約3万行に相当します。
  • 無料版での運用: ただし、現在あなたが利用されている無料版のウェブインターフェースでは、システム上の最適化のため、この最大値よりも短い範囲で制限がかかる場合があります。

2. 出力制限(1回の回答の長さ)

一度のプロンプト(指示)に対して、私が一度に生成できるテキストの長さにも制限があります。

  • 通常、一度の回答で出力できるのは 数千トークンから数万トークン(最大約6.5万トークン) 程度です。
  • もし回答が非常に長くなる場合、途中で文章が途切れてしまうことがあります。その際は「続けて」と入力していただければ、続きを書き直すことが可能です。

3. トークンとは何か?

トークンは文字数とイコールではありませんが、目安として以下のように考えられます。

言語目安
日本語1文字 ≒ 1〜2トークン(漢字やひらがなによって変動)
英語1単語 ≒ 0.75トークン(1,000トークンで約750単語)

4. 制限に達するとどうなるか

長い対話を続けてトークン制限を超えると、以下のような挙動が見られます。

  • 情報の忘却: 会話が極端に長くなると、最初の方に話した内容を「忘れて」しまうことがあります。
  • エラーや中断: 非常に長い文章を一気に出力しようとすると、処理が中断されることがあります。

Tips: もし膨大な資料(長いPDFや大量のコードなど)を読み込ませたい場合は、小分けにして入力するか、重要な部分を要約して伝えていただくのが効率的です。

ご質問の意図として、何か特定の長いテキストを処理させる予定がありますか?よろしければ、**「長い文章を効率よく読み込ませる方法」**などについてもお伝えできます。

たとえばドイツ語の小説を日本語に翻訳してもらおうとする場合、どのくらいの長さまで一度に翻訳できますか。

ドイツ語の小説を日本語に翻訳する場合、技術的な限界と、翻訳の質を保つための「推奨される長さ」の2つの視点があります。

結論から申し上げますと、一度の指示で精度を落とさずに翻訳できるのは、日本語の出力ベースで 約3,000〜5,000文字程度(ドイツ語の原文でいうと 1.5〜2ページ分ほど)が目安です。


翻訳量の目安

技術的にはもっと長く(数万文字単位で)出力することも可能ですが、一度に長すぎる量を頼むと、文章が省略されたり、翻訳のトーンが不安定になったりするリスクが高まります。

区分原文(ドイツ語)の目安日本語訳の目安評価
推奨(最適)約1,000〜1,500単語約3,000〜5,000文字最も正確で、文体も安定します。
可能(実用圏内)約3,000単語約10,000文字文脈は維持されますが、細部が甘くなることがあります。
限界(非推奨)それ以上数万文字途中で止まったり、内容を要約し始めたりする可能性が高いです。

なぜ「小分け」が良いのか?

小説の翻訳において、一度に詰め込みすぎない方が良い理由は主に3つあります。

  1. 文体の維持: 長すぎると、物語の最初と最後で語尾(「だ・である」と「です・ます」など)や、キャラクターの一人称がブレやすくなります。
  2. 細部の正確性: 小説には比喩や独特の表現が多いですが、一度に大量に処理させると、それらを単なる「直訳」や「省略」で済ませてしまう傾向があります。
  3. トークン消費: ドイツ語は1単語あたりの情報密度が高く、それを日本語(漢字・かな)に変換するとトークン消費量が増えるため、見た目以上にリソースを消費します。

小説をきれいに翻訳させるコツ

もし1冊の小説を翻訳したい場合は、以下の手順が最もスムーズです。

  • 章(Chapter)ごと、またはシーンごとに依頼する: 意味の区切りで分けるのがベストです。
  • 「続き」機能を使う: 一度翻訳が止まったら「前の続きから翻訳して」と伝えることで、文脈を維持したまま進められます。
  • 設定を最初に伝える: 「この小説の主人公は10代の少女で、少しぶっきらぼうな口調で訳して」といった指示を最初に出すと、クオリティが劇的に上がります。

注意点: ドイツ語は格変化や長い複合語が含まれるため、日本語に訳すと文字数が 1.5倍〜2倍近くに増える ことがあります。それを考慮して、少し余裕を持った長さで区切るのがコツです。

翻訳したい特定のテキスト(例えば冒頭の数ページなど)は既にお手元にありますか?もしよろしければ、まずは最初の数百単語を試行として翻訳してみることも可能ですが、いかがでしょうか?

bios画面が出ない

linuxをインストールするためboot順序を変えようと思い、bios画面をだそうとしてなかなか出ないということが何度かあった。

bios画面を出すには hp だと f10 だが lenovo だと f1 らしい。しかしいくら押してもそもそもマザボの bios が表示するロゴ画面がでない。これはおそらく、マザボの仕様で、外付けGPUを挿している場合には、そちらの出力にしかロゴ画面がでないのだ。

lenovo thinkstation P340 tiny は 4ポートの mini displayport しかない quadro を挿していて、こちらに繋ぎ代えたらロゴ画面が出て、bios 設定画面を出すことができた。

備忘録代わりに、bios画面を出すで検索してもなかなかこの情報が出てこないので書いておく。

PCモニタがわのせいか、ケーブルのせいか、それとも gpu のコネクタのせいかは知らないが、displayport 端子はすぐにひっかかって壊れてしまう。または抜きにくい。非常にストレスがたまる。

その点、mini displayport は、抜けやすいのかもしれないが、ストレスがたまらないのがよい。displayport はみんな mini にしてしまえばよいのに、とも思うが、将来はみな usb 接続に統一されていくのかもしれない。

仕事が減ってきたので優雅に ubuntu などいじってるが、教員として仕事をするなら、このくらい余裕があってちょうどよいのに違いない。

研究業績

私が最後に転職したのが2002年のことで、そのあと一度昇進人事があったきり自分の研究業績をまとめる必要が(業務上)なかったので、ずっとほったらかしていた。昔はずいぶん論文を書いたり記事を書いたりしていたものだと思う。今も書いているのだが、大学の本務として論文を書くことはほとんどない。それでもたまに紀要論文をかいたり国際会議のプロシーディングスを書いたりはするけど、最近はまともに研究してないので、書くとしてもたかがしれているし、最近の論文業績が無いから科研費申請しようにもたぶん通らない。そもそも私が好きな研究というのはたいてい金がかからないし、大学の仕事とか学会活動から今ではもうずっとかけ離れてしまって科研費申請しようという気が起こらない。

私だって、300万円あればすごい研究ができるのにと思えば人に言われるまでもなく科研費申請すると思うが、私の研究はただでできるとは言わないが大学からもらっているお金でほぼ賄えてしまう。わざわざ苦労して申請する理由がない。また、誰もかれも金をとってくることが目的化していて、その研究にやる価値があるかないか、どのくらい予算をつかうべきかなどということはそっちのけになっているように思える。そういうことをみんながやるからほんとにお金を使って研究をしなくてはならない人に金が回らないのではないのか。また、国立大学に研究費があまりに少ないから科研費申請するのだという話も聞くのだが、それは特別予算申請と通常予算の区別ができてないのがいけない。いろいろと制度的に破綻しているのを感じる。

それはそうと今、20年ぶりくらいに、ちゃんと研究業績をまとめようとしているのは、もうそろそろ定年退職だからその前にきちんと自分が何をやってきたかということを残しておきたいというのがある。もう一つ、近日中に実名で本を出版する予定で、この本はたぶん私のこれまでの研究人生の集大成とでもいうべきものになるから、結局私という人間は何者であったのかということを、自ら示したいという気持ちもある。

40年以上にわたる研究履歴を見るに私はやはり研究が好きな人間であった。また、ものを書くのが好きな人間だった。社会に出て会社員勤めなどはとうていつとまらない人間だったから、今のようにある程度好きに仕事をさせてもらえたのは幸運だった。

下手な文章もたくさん書いてきた。今から読むと恥ずかしい評論みたいなものまで書いた時期もあった。だがそれらも含めて私が書いた文章なので、ともかくもきちんと一覧にまとめておきたいと思う。実を言えば researchmap にも載せてない KDP で出版した小説が膨大にあるんだが、これを私の業績の一部に掲載するにはまだかなり抵抗がある。

今からみればXアプリケーションプログラミングなどという本は非常に稚拙で雑な本であった。しかしながら当時はまだアプリケーションプログラムなどという言葉すら一般的でなく、今のようにアプリなどと短く略して誰もが使うような言葉になるとは予想さえしていなかった。今ならもっとまともな本が書けるけれど当時の私にはあれが精一杯だった。

ともかく私も60才になってあとちょっとで定年なので、今までは仕事とプライベートを分けてやってきたけど、だんだんにその垣根を下げて一つにまとめていこうと思っている。

3DCG演習

私は自学科向けに「コンピュータリテラシーB」「システムデザイン」「CG応用演習A」という(実質的)演習科目を持っていたのだが、「システムデザイン」は非常勤講師の人にやってもらうことになり、その代わりに「3DCG演習」という専門共通科目を今年度から担当することになった。

この「3DCG演習」は芸術学部すべての学科の学生に専門科目として履修できるようになっている。初めて彼らの課題をチェックしているのだが、なかなか興味深い。自学科の学生とは明らかに感性が違っているし、作り込みも意外な学科が意外な凝り方をしたりしている。

Unreal Engine 5.1.1 でパッケージ化したものを提出させているので、そもそも課題提出がかなり難しい。かつ完全な遠隔授業なので、UE5.1 が使いこなせない学生を直接助けてやることができない。なので、課題提出までたどり着いた学生の作品はどれもそれなりにレベルが高い。

マテリアルやパーティクルにめちゃくちゃ凝ったり、難易度が高すぎたりしてて面白い。ゴールまでなかなかたどり着けないのは困るが。

これはあくまで私個人の意見だが、124単位のうち60単位までは遠隔授業でやることが認められているのだから、その60単位枠はうまく活用して、すでに(他大学などではある)通信教育などのノウハウを活用し、異なるキャンパス、異なる学部でも、場合によっては他大学提供科目としても履修できる科目に割り当てるようにして履修者数の制限もせず希望者は誰でも取れるようにして、その代わり大人数の課題を裁けるような採点業務のサポートなどをしてもらいたいと思う。今はコロナのドタバタで何を遠隔にし、何を面接授業にするかという基準も無く方針もない。中野キャンパスは都心にあって慢性的に教室が足りないのだから、うまくやりくりすれば、かなり劇的な効果を期待できると思うのだが。

近頃どこかのユーチューバーが、大学の教員はもっと研究に専念して、基礎的な科目はユーチューバーに任せれば良いのに、というような発言をして燃えていたけど、私もある程度まではそれに賛成だ。世の中には10年前20年前に書いた教科書をそのまま使って講義しているような人もいる。そういう人にモチベーションをもたせようといろいろ画策するより、研究しかやりたくない人には研究だけやらせて、教育がやりたくてしかたない人にはもっとどんどん教育をやらせてやれば良いだけだと思うのだが。

アカデミックアドバイザー制度、学修ポートフォリオ

教員が学生に指導したり、教育したり、助言することはできるだけ少なくしたほうが良いと私には思える。その代わりに学生が能動的に、自分はどういう社会人になりたいのかということを、明確に意識するような仕組みを大学が提供すべきで、そのためにアカデミックアドバイザー制度とか学修ポートフォリオなどが必要になるのだ。

学生が教員に言われたからやりますではダメだし、教員も、学生が自分の指示通りに動いたからと、ただそれだけで満足してはダメだ。

結局学生がメンタルを病むのも、或いは成績不良で留年するのも、就活で苦労するのも、自分が社会にどんなふうに必要とされているのか、将来自分が社会人になってどうやって生計を立てていくかという明確な見通しがないことに起因するのであり、最近は精神を病む学生が多いとか、留年者が多いなどということは原因ではなく結果であって、学生部的に、教務部的に対症療法でなんとかしようとしても、効果はあまり期待できないと思う。問題の本質はアドミッションポリシーとディプロマポリシーにある。

そしてカリキュラムポリシーに関していえば、将来社会人として世の中で働いていける教養と技能、そして社会性を身に付けさせ、社会人として働いていける準備を完了させるというほかにない。授業の難易度を下げ、面白くウケは良いが簡単な授業ばかりにすることは留年を防ぐため一時的な効果はあるかもしれないが、それが就職に不利に働くのであれば結局はアドミッションポリシーにもディプロマポリシーにも反することになる。

大学四年間はモラトリアムで、じっくり自分が将来どんな人間になるか考える期間なのだという。それはまったくその通りで、やっぱり自分は就職しない、ユーチューバーになる、というのもそれはそれでその人が、最終的に選択した結論ならば良いのだけど、どんな人間になりたいかわからないまま大学に入り、どんな人間になりたいか決められないまま卒業するというのでは、どんな優れた教育をおこなったとしても学修成果としては不十分と言わねばなるまい。逆にどんな人間になりたいか明確に定まり、揺るぎないモチベーションが定まったならば、大学で学んだことと社会でやることがほとんど関係なくても、それはそれで大学に進学したかいがあった、学修成果があったといわねばなるまい。

教員がいくら、本人のためによかれと、あれこれ教えても、それで学生がますます萎縮し、自発的に考えることも行動することもできなくなるとしたら、それは悪い教育だ。また、あなたは自分で自由に考えて、自分のなりたい自分になりなさい、と言うだけではまったく不十分だ。学生はえてして自由を与えられても何をやれば良いかわからず結局は何もしない。やはり大学側としては、まったくもって当たり前のことなのだが、明確なアドミッションポリシーとディプロマポリシーを提示し、アカデミックアドバイザー制度や学修ポートフォリオを充実させ、学生がそれらを完全に理解し活用できるようにしてあげるべきなのである。それらの制度と、小中高校までの担任制度のように、何でも教員が学生の面倒を見てあげるようなものとは、まったく違うものなのだ。

ブログを再開した

ヘッダー画像に凝り始めたら切りがないので、適当なところでやめておいた。

つまり、まず unreal editor のスクリーンショットを撮り、それを clip studio かなんかでクリッピングし、さらにそれを wordpress に持っていって css をいじって位置合わせをするのだが、全然直感的じゃないし、一発で決まらない。