bios画面が出ない

linuxをインストールするためboot順序を変えようと思い、bios画面をだそうとしてなかなか出ないということが何度かあった。

bios画面を出すには hp だと f10 だが lenovo だと f1 らしい。しかしいくら押してもそもそもマザボの bios が表示するロゴ画面がでない。これはおそらく、マザボの仕様で、外付けGPUを挿している場合には、そちらの出力にしかロゴ画面がでないのだ。

lenovo thinkstation P340 tiny は 4ポートの mini displayport しかない quadro を挿していて、こちらに繋ぎ代えたらロゴ画面が出て、bios 設定画面を出すことができた。

備忘録代わりに、bios画面を出すで検索してもなかなかこの情報が出てこないので書いておく。

PCモニタがわのせいか、ケーブルのせいか、それとも gpu のコネクタのせいかは知らないが、displayport 端子はすぐにひっかかって壊れてしまう。または抜きにくい。非常にストレスがたまる。

その点、mini displayport は、抜けやすいのかもしれないが、ストレスがたまらないのがよい。displayport はみんな mini にしてしまえばよいのに、とも思うが、将来はみな usb 接続に統一されていくのかもしれない。

仕事が減ってきたので優雅に ubuntu などいじってるが、教員として仕事をするなら、このくらい余裕があってちょうどよいのに違いない。

研究業績

私が最後に転職したのが2002年のことで、そのあと一度昇進人事があったきり自分の研究業績をまとめる必要が(業務上)なかったので、ずっとほったらかしていた。昔はずいぶん論文を書いたり記事を書いたりしていたものだと思う。今も書いているのだが、大学の本務として論文を書くことはほとんどない。それでもたまに紀要論文をかいたり国際会議のプロシーディングスを書いたりはするけど、最近はまともに研究してないので、書くとしてもたかがしれているし、最近の論文業績が無いから科研費申請しようにもたぶん通らない。そもそも私が好きな研究というのはたいてい金がかからないし、大学の仕事とか学会活動から今ではもうずっとかけ離れてしまって科研費申請しようという気が起こらない。

私だって、300万円あればすごい研究ができるのにと思えば人に言われるまでもなく科研費申請すると思うが、私の研究はただでできるとは言わないが大学からもらっているお金でほぼ賄えてしまう。わざわざ苦労して申請する理由がない。また、誰もかれも金をとってくることが目的化していて、その研究にやる価値があるかないか、どのくらい予算をつかうべきかなどということはそっちのけになっているように思える。そういうことをみんながやるからほんとにお金を使って研究をしなくてはならない人に金が回らないのではないのか。また、国立大学に研究費があまりに少ないから科研費申請するのだという話も聞くのだが、それは特別予算申請と通常予算の区別ができてないのがいけない。いろいろと制度的に破綻しているのを感じる。

それはそうと今、20年ぶりくらいに、ちゃんと研究業績をまとめようとしているのは、もうそろそろ定年退職だからその前にきちんと自分が何をやってきたかということを残しておきたいというのがある。もう一つ、近日中に実名で本を出版する予定で、この本はたぶん私のこれまでの研究人生の集大成とでもいうべきものになるから、結局私という人間は何者であったのかということを、自ら示したいという気持ちもある。

40年以上にわたる研究履歴を見るに私はやはり研究が好きな人間であった。また、ものを書くのが好きな人間だった。社会に出て会社員勤めなどはとうていつとまらない人間だったから、今のようにある程度好きに仕事をさせてもらえたのは幸運だった。

下手な文章もたくさん書いてきた。今から読むと恥ずかしい評論みたいなものまで書いた時期もあった。だがそれらも含めて私が書いた文章なので、ともかくもきちんと一覧にまとめておきたいと思う。実を言えば researchmap にも載せてない KDP で出版した小説が膨大にあるんだが、これを私の業績の一部に掲載するにはまだかなり抵抗がある。

今からみればXアプリケーションプログラミングなどという本は非常に稚拙で雑な本であった。しかしながら当時はまだアプリケーションプログラムなどという言葉すら一般的でなく、今のようにアプリなどと短く略して誰もが使うような言葉になるとは予想さえしていなかった。今ならもっとまともな本が書けるけれど当時の私にはあれが精一杯だった。

ともかく私も60才になってあとちょっとで定年なので、今までは仕事とプライベートを分けてやってきたけど、だんだんにその垣根を下げて一つにまとめていこうと思っている。

3DCG演習

私は自学科向けに「コンピュータリテラシーB」「システムデザイン」「CG応用演習A」という(実質的)演習科目を持っていたのだが、「システムデザイン」は非常勤講師の人にやってもらうことになり、その代わりに「3DCG演習」という専門共通科目を今年度から担当することになった。

この「3DCG演習」は芸術学部すべての学科の学生に専門科目として履修できるようになっている。初めて彼らの課題をチェックしているのだが、なかなか興味深い。自学科の学生とは明らかに感性が違っているし、作り込みも意外な学科が意外な凝り方をしたりしている。

Unreal Engine 5.1.1 でパッケージ化したものを提出させているので、そもそも課題提出がかなり難しい。かつ完全な遠隔授業なので、UE5.1 が使いこなせない学生を直接助けてやることができない。なので、課題提出までたどり着いた学生の作品はどれもそれなりにレベルが高い。

マテリアルやパーティクルにめちゃくちゃ凝ったり、難易度が高すぎたりしてて面白い。ゴールまでなかなかたどり着けないのは困るが。

これはあくまで私個人の意見だが、124単位のうち60単位までは遠隔授業でやることが認められているのだから、その60単位枠はうまく活用して、すでに(他大学などではある)通信教育などのノウハウを活用し、異なるキャンパス、異なる学部でも、場合によっては他大学提供科目としても履修できる科目に割り当てるようにして履修者数の制限もせず希望者は誰でも取れるようにして、その代わり大人数の課題を裁けるような採点業務のサポートなどをしてもらいたいと思う。今はコロナのドタバタで何を遠隔にし、何を面接授業にするかという基準も無く方針もない。中野キャンパスは都心にあって慢性的に教室が足りないのだから、うまくやりくりすれば、かなり劇的な効果を期待できると思うのだが。

近頃どこかのユーチューバーが、大学の教員はもっと研究に専念して、基礎的な科目はユーチューバーに任せれば良いのに、というような発言をして燃えていたけど、私もある程度まではそれに賛成だ。世の中には10年前20年前に書いた教科書をそのまま使って講義しているような人もいる。そういう人にモチベーションをもたせようといろいろ画策するより、研究しかやりたくない人には研究だけやらせて、教育がやりたくてしかたない人にはもっとどんどん教育をやらせてやれば良いだけだと思うのだが。

アカデミックアドバイザー制度、学修ポートフォリオ

教員が学生に指導したり、教育したり、助言することはできるだけ少なくしたほうが良いと私には思える。その代わりに学生が能動的に、自分はどういう社会人になりたいのかということを、明確に意識するような仕組みを大学が提供すべきで、そのためにアカデミックアドバイザー制度とか学修ポートフォリオなどが必要になるのだ。

学生が教員に言われたからやりますではダメだし、教員も、学生が自分の指示通りに動いたからと、ただそれだけで満足してはダメだ。

結局学生がメンタルを病むのも、或いは成績不良で留年するのも、就活で苦労するのも、自分が社会にどんなふうに必要とされているのか、将来自分が社会人になってどうやって生計を立てていくかという明確な見通しがないことに起因するのであり、最近は精神を病む学生が多いとか、留年者が多いなどということは原因ではなく結果であって、学生部的に、教務部的に対症療法でなんとかしようとしても、効果はあまり期待できないと思う。問題の本質はアドミッションポリシーとディプロマポリシーにある。

そしてカリキュラムポリシーに関していえば、将来社会人として世の中で働いていける教養と技能、そして社会性を身に付けさせ、社会人として働いていける準備を完了させるというほかにない。授業の難易度を下げ、面白くウケは良いが簡単な授業ばかりにすることは留年を防ぐため一時的な効果はあるかもしれないが、それが就職に不利に働くのであれば結局はアドミッションポリシーにもディプロマポリシーにも反することになる。

大学四年間はモラトリアムで、じっくり自分が将来どんな人間になるか考える期間なのだという。それはまったくその通りで、やっぱり自分は就職しない、ユーチューバーになる、というのもそれはそれでその人が、最終的に選択した結論ならば良いのだけど、どんな人間になりたいかわからないまま大学に入り、どんな人間になりたいか決められないまま卒業するというのでは、どんな優れた教育をおこなったとしても学修成果としては不十分と言わねばなるまい。逆にどんな人間になりたいか明確に定まり、揺るぎないモチベーションが定まったならば、大学で学んだことと社会でやることがほとんど関係なくても、それはそれで大学に進学したかいがあった、学修成果があったといわねばなるまい。

教員がいくら、本人のためによかれと、あれこれ教えても、それで学生がますます萎縮し、自発的に考えることも行動することもできなくなるとしたら、それは悪い教育だ。また、あなたは自分で自由に考えて、自分のなりたい自分になりなさい、と言うだけではまったく不十分だ。学生はえてして自由を与えられても何をやれば良いかわからず結局は何もしない。やはり大学側としては、まったくもって当たり前のことなのだが、明確なアドミッションポリシーとディプロマポリシーを提示し、アカデミックアドバイザー制度や学修ポートフォリオを充実させ、学生がそれらを完全に理解し活用できるようにしてあげるべきなのである。それらの制度と、小中高校までの担任制度のように、何でも教員が学生の面倒を見てあげるようなものとは、まったく違うものなのだ。