工学と芸術

By , 2012年6月16日 (土) 07:00:18

思うに私が純粋に「理系」の人間だったのは、高校二年に理系進学クラスに分かれてから、 工学部の助手だった16年間のことである。 世の中では理系の高等教育を受けた者を普通理系というので、私は今も理系かもしれない。 しかし人生というのは長いもので、工学部の助手を辞めてからもう15年経ってしまった。 私の人生の中で完全に理系だったのは全体の三分の一に過ぎない。

工学部を辞めてから15年間も試行錯誤を続けてきたが、 もうここらでいいかげんに抵抗をやめても誰も怒らないだろう。

工学系の人間が工学部の学生に工学的な授業をするのはそんなに難しいことではない。 たとえば二進数を教えるとする。 私自身別に二進数が嫌いなわけではなく、学生ももしかしたら好きかもしれないし、 わざわざ工学部に来たくらいだから、知らなくても教えれば好きになるかもしれない。 もし教わってみて嫌いだとしても、工学部に来て二進数を教わるのは仕方ないと諦めるに違いない。

しかし、工学系の人間が芸術学部の学生に工学的な授業をするのは極めて苦痛だ。

芸術系の教員が芸術学部の学生に工学的な授業をする、と考えればまた話は違ってくる。 芸術系の教員は芸術的な感覚で二進数を学んできたはずであり、 その自分の経験に基づいて学生に二進数を教えることが可能だからであり、 また芸術系の教員があえて芸術学部の学生に二進数を教えるのであるから、 そこには教える側にもある程度の覚悟があるし、 教わる側にも身構える姿勢というものが生まれるだろう。

工学系の人間が芸術学部の学生に工学的な授業をするには、そういう、 よくわからぬ阿吽の呼吸の如きものを身につけなければならないのだが、 もともと工学系の人間というのは、そういうものが嫌いだから理系になったのであって、 それをそのままずばりと教えられなければいらいらしてしまうのだ(私は学部生の頃複素二進数とフラクタルの絡みを「研究」していた。本当に授業で教えて楽しいのはその辺のことなのだが、そこまでたどり着くにはあまりに遠すぎる)。

芸術系の学生が工学系の大学院に進学して技術や理論を学ぶということもあり得ることであって、 それはたまたま本人が好きでそうしているのであり、 モチベーションも高いからできることである。 あえて敵地に単身乗り込む覚悟ができている。 そういう場でアートと技術が融合した作品が生まれる、それも十分あり得ることだ。 そういう能動的な交流の場では何が起きてもおかしくない。

工学系の人間が芸術学部の学生に工学的な授業をすると、学生は、 何で俺は私はこいつからこんなつまらぬ授業を受けねばならぬのだ、と反発する。 そして、それ以上に理解が深まることはない。 工学系の教員は一応努力してみようとする、わざわざ好きこのんで工学部から芸術学部に移ってきたのだから、 芸術系の学生にもわかるように授業しなくてはと。 また周りの芸術系の教員もそれを期待する。 学生が嫌がっても必要なことだから教えてください、と。 しかしわざわざ嫌われ役になるのが好きな人間など滅多にいない、鬼教官役が好き、 というような変わり者でなければ。 また、私がいくら一生懸命二進数を教えたところで彼らは二進数を理解して芸術系のゼミに行ってしまう。 芸術家がたまたま必要になったから専門学校に半年かよって専門技術を身につけたというのと変わらない。 一種のつまみ食い、病気になったときの薬と同じで、毎日の常食にしようという気持ちはそこにはない。

芸術学部で工学的な授業をやり続けるということは、 結局は芸術系教員のサポート役に回るという意味しかない。 ただ単に助っ人として呼ばれたという意味しかない。 アーティストやデザイナーが自分にできない部分だけエンジニアに外注に出している感覚。 そんな頼まれ仕事が楽しい者はいない。 工学系の役割を押しつけられて他に身動きとれなくなると自分から辞めていくしかない。 うまく利用されているだけなのだから。 それを承知で来ているのならともかく、こちらは、芸術学部の学生たちに、 理系的センスや知識を教えてやろう、そうして芸術と技術の融合した作品制作なり研究なりとやってやろうと意気込んできているのであるから、面白いわけがない。 ところが向こうはこちらが多少工夫したくらいでは芸術の殻から出てきてはくれない。 逆に、どうしてそんなに意固地で理解力がないのか、なぜもっと協力しようと思わないのか、 どうしてそんなに協調性がないのか、というくらいにしか思われない。 彼らが我々エンジニアの立場でものを考えることはあり得ない。 おそらく私も芸術家(or デザイナー)の考え方は、永久にできないだろう、もしああいう考え方をするのが芸術家とかデザイナーいうのであれば。

私はずいぶん前から二進数を学生に教えるのをやめてしまっている。 さらにこれからはプログラミングを教えるのもやめようと思っている。 CGの教員としてやっていこうと。 私が観察するに、芸術学部にはもともと理系の教員もいるが、 彼らはさっさと理系の教育をやめて芸術系の教育をやっている (さもなくば、すでに芸術学部の教員を辞めている)。 芸術学部に来るからには芸術に多かれ少なかれ興味があるのに違いなく、 学生に求められればつい芸術系の授業をやってしまうのに違いない。 また、芸術系の学生には芸術系の授業をした方がずっと楽、だからでもある。 しかし、芸術系の教員として適性があるかその資格があるかどうかはまた別問題である。 本人が教えたいということと、その人が教えてよいか、ということはまったく無関係だ。 芸術に関する専門教育も受けておらず、教員審査もうけていなくてどうして芸術系の授業を行ってよいか。 たとえば、趣味で俳句に凝ってるから授業で俳句を教えてよいか、とか、 趣味で油絵を描いているから授業で教える資格があるか、と言えばまだそりゃダメだとわかりよい。 しかしいろんなグレーゾーンがある。 個人的に写真や映像制作や同人活動をしていていくらかの収入があるとか、 作曲したりライブハウスで演奏してるとか、インディーズのゲーム制作をかじってるとか。 ではそれを授業で教えてよいのか。

教員審査を通っているものであれば堂々と教えて良いだろう。 もちろん私が理系の授業をすることについてはまったく問題ないわけだ。 事務上の手続きの問題でたまたま理学博士になったが、理学とは何かとか科学者とは何かについて語るのは、 まったく問題ない。というか、語れなきゃ詐欺師と同じだ。 堂々と語れば良い。 教員審査にないことでも、実務経験なり教育実績なり受賞歴なりあるなら教えてもよかろう。 しかしそれ以外のことは教えてはいけない、それが大学教育というものだろう。

私はずっと芸術系の授業をすることに抵抗してきた。 私の目から見てそれは純粋に芸術系の教育 (たとえば企画書や絵コンテを書くこととかプレゼンや講評会をやること、芸術セッションの座長をやること、つまり、主観評価を行うこと、私の主観を学生に強要することetc。企画書や絵コンテは一般教養だから普通の社会人なら教えてよいのだ、と言われたことがある。しかし私は普通の社会人ではない。会社員だったこともない)だと思えば周囲と喧嘩になってもやらない、ということもあった。 工学と芸術の融合分野の教育ならば、もちろんやろうと思った。 私が芸術学部に来た使命はまさにそれだからだ。

工学の教員が工学部で工学の授業をするのでもなく、 芸術の教員が芸術学部で芸術の授業をするのでもない。 工学の教員が芸術学部で工学の授業をし、 芸術の教員が工学部で芸術の授業をする。 そうしなければ工学部と芸術学部の融合ということはあり得ない。 12年前に芸術科学会という学会の立ち上げにも関わった。 東京工芸大学という、芸術学部と工学部の二学部しかない、希有な大学に来さえもした。 工芸融合ということに本気で取り組んできた第一人者だという自負がある。

工芸融合ということは、もっと簡単にできるものだと思っていた。 しかし、工学と芸術は私が旗振り役をつとめたくらいで融合するようなものではない。 少なくとも、私が考えているようには、私の方法論ではいくらたっても実現しない。 工学の人間は工学にしか興味ない、 芸術の人間は芸術的な立場でしかものを考えない、 私のように工学と芸術の中間にある汽水領域が住み心地がよい、などとは決して考えない。

工学の人間は工学の世界が住み心地がよく、 芸術の人間は芸術の世界が住みよい。 その感覚的なものを無視しては話は先に進まない。 作為は無意味だ。 その中間が気持ちいいよと言ってもそれは私一人の感覚であって、 万人には受け入れられないのだ。

もうずいぶん長い間抵抗してきた。そろそろもういいんじゃないかと思う。 芸術学部で芸術系の学生に芸術を教える教員になろうと思う。

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